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マルクス『経済学・哲学草稿』[1843-45→1932=1964]

 

第一草稿 1.労賃

 

・「労賃は資本家と労働者との敵対的な闘争を通じて決定される。[その闘争で]資本家が勝つ必然性[はどこにあるか]。資本家は、労働者が資本家なしで生活できるよりも長時間、労働者なしで生活することができる。資本家たちのあいだの団結は慣習となっており、効果のあるものだが、労働者たちとの団結は禁止されており、労働者にとって悪い結果をもたらす。」(17)

 

◆労働者の苦しみ

・「あらゆる他の商品の場合と同様に、人間に対する需要が、必然的に人間の生産を規制する。供給が需要よりはるかに大きいとき、労働者の一部は乞食の状態か餓死に陥る。こうして、労働者の生存は、他のすべての商品の存立のもとへ引き下げられている。労働者は一個の商品となっており、しかももし自分を売りさばくことができれば、それは彼にとって幸運なのである。」(18)

・「したがって市場価格が自然価格へひきよせられるさいに、もっとも多く、また無条件に損をするのは労働者である。」「労働〈者〉は、資本家が儲けるさいには、必然的に儲けるとは限らないが、しかし資本家が損をするさいには、必然的に損をする。」「さらにまた、労働の価格は生活資料の価格よりもはるかに不変である。」(19)

・「一般的に注目されるべきことは、労働者と資本家とが同じように苦しむとしても、その場合、労働者は自分の生存のために苦しみ、資本家は自分の死せるマンモン[財産の神]の獲得のために苦しむということだ。」(20)

 

◆三つの社会状態と労働者

@富が減退しつつある社会:労働者階級がもっとも苦しむ。

A富が増進しつつある社会(21)

→労賃の上昇が過重労働を引き起こす。そして自分の生涯を短縮する。

→資本の集積がすすむことによって、労働者の生活手段はますます資本家の手に集中するようになる。

→資本の集積は分業を拡大させ、分業は労働者の数を増やす。「労働者はますます一途に労働に、しかも特定の、きわめて一面的な、機械的な労働に、依存するようになる。こうして労働者は、精神的にも肉体的にも機械にまで下落させらせれ、一人の人間から一個の抽象的活動および一個の胃袋となるが、それに応じて彼はまた、市場価格のあらゆる動揺や資本の投下や富者の気まぐれに、ますます左右されるようになる。……労働者のこのような立場は、工場制度においてその絶頂に達する。」(22)

→諸資本のあいだの競争は激しさを増し、大資本家が小資本家を負かし、資本家の数が減少する。すると、労働者の数が増え、労働者のあいだの競争が激化する。そして一部は、必然的に乞食状態か飢餓状態に転落する。

・「したがって、労働者にもっとも有利な社会状態のなかでさえ、労働者にとっての必然的な諸結果は、過重労働と早死、機械への転落、労働者に敵対して物騒に集積される資本への隷属、新しい競争、労働者の一部の餓死、または乞食化である。/労賃の上昇は、資本家のもつ致富欲を労働者のなかに呼び起こすが、しかし労働者はこの致富欲を、ただ彼の精神と肉体とを犠牲にすることによってしか、満足させることができない。」(23)

 

 

◆機械・労働者・一面性

・「分業は人間たちの競争ばかりでなく、諸機械の競争をも引き起こすが、同様にまた、

労働者をますます一面的に、そして従属的にする。労働者は機械にまで転落しているから、機械は労働者に対し競争者として対抗することができる。」(23)

 

◆労働と労働生産物についての規定

・労働の全生産物は労働者に属する。⇔労働者の手に入るのは必要不可欠な部分のみ。

・すべてのものは労働によって買うことができる。資本は労働の集積にすぎない。⇔労働者は、自分自身を売らなければならない。(25)

 

◆二つの問題に答えてみよう

@「人類の大部分がこのように抽象的な労働へと還元されるということは、人類の発展においてどのような意味を持つか。」(28)

A「労賃を引き上げて、それにより労働者階級の状態を改善しようとするか、さもなければ労賃の平等を(プルードンのように)社会革命の目的とみなすような社会改革家たちは、……どのような誤りを犯しているのか。」

 

・イギリスにおける売春人口、6-7万人(34)

 

第一草稿 2.資本の利潤

2−1.資本

・【資本】「労働とその生産物に対する支配権」(40)

 

2−2.資本の利得(=利潤)

・「資本家は、競争の少ない場合にはそれを利用しつくして多くの利益を上げることができるが、そうしたすべての利益のほかに、実直な仕方で、資本家は市場価格を自然価格以上に保つことができる。」(43)

@遠隔地に住む人々に市場価格の変動を秘密にしつづけることができる。

A製造業の秘密。競合他社よりも安く作る技術の知識を秘密にすることができる。

B生産が特定の地方に限定されていて有効需要が決して満たされない場合。ぶどう酒。

C個人や会社による独占によって。(44)

 

2−3.労働に対する資本の支配および資本家の動機

2−4.資本の蓄積と資本家間の競争

氈u国民経済学の教示によると、労賃を高めるにも、消費する大衆のために商品を廉価にするにも、同じように有利に作用する競争が、資本家に対抗する唯一の援助者である。/しかし、競争は諸資本が増大することによってのみ、しかも多くの人たちの手中で増大することによってのみ可能である。……諸資本のあいだの競争は諸資本のあいだでの蓄積を増大させる。」(48)→大資本による小資本の食いつぶしへ。

・《スミスの引用》「富がきわめて高い段階に達している国では、利潤の通常率はきわめて小さく、……もっとも富んだ人たち以外は貨幣利子で生活できなくなるであろう。」「資本が勝利を得ているところでは勤勉が支配し、収入が勝っているところでは怠惰が支配する。」(49)

・「この競争においては、大都会で見受けられるように、商品の一般的な粗悪化、偽造、外観をつくるだけの生産(Scheinproduktion)、一般的な毒物混入が必然的な帰結である。」(51)

 

◆固定資本と流動資本

・【流動資本】:「生活資料の生産、製造業または商業のために使用される資本」(51)

・【固定資本】:「土地の改良のため、また機械、道具、手工具などに投入される資本」

 

◆競争市場社会に対する批判

・《ペクールの引用》「……三つの経済的契機、すなわち使用し濫用する権利、交換の自由、および自由競争は、次の諸結果を引き起こす。各人は、自分が欲するものを、欲するように、欲するときに、欲するところで生産する。各人は、良くまたは悪く、あまりに多くまたあまりに少なく、あまりに早くまたはあまりに遅く、あまりに高価にまたあまりに安価に生産する。」(56)「……必然的に起きる結果、それは破産の永続化と普遍化であり、誤算、突然の破滅と思いがけない幸運であり、商業上の危機、失業、周期的な供給過剰または欠乏、賃金および利潤の不安定と低下、激烈な競争場裡における富と時間と努力との消耗または途方もない濫費である。」(57)

 

 

3.地代

 

第一草稿 4.疎外された労働

 

◆経済学批判

・「国民経済学は私有財産という事実から出発する。だが国民経済学はわれわれに、この事実を解明してくれない。国民経済学は、私有財産が現実のなかでたどってゆく物質的過程を、一般的で抽象的な公式で捉える。その場合これらの公式は、国民経済学にとって法則として通用するのである。国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない。すなわちそれは、これらの法則がどのようにして私有財産の本質から生まれてくるかを確証しようとしないのである。……国民経済学を動かしている唯一の車輪は、所有欲であり、所有欲に駆られている人たちのあいだの戦いであり、競争である。」(84-85)

□競争の排他性、負の価値、敵対性についての批判。

 

◆労働力の価値低下としての疎外

・「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。」

□労働力の価値低下。

→「さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、一つの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものに他ならない。」(86-87)

□【疎外】生産物が資本の支配下に陥っていくこと。

 

◆資本主義と宗教

・「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。このことは宗教においても同様である。人間が神により多くのものを帰属させればさせるほど、それだけますます人間が自分自身のうちに保持するものは少なくなる。」(87-88)

 

◆外化としての疎外:生産物の自立化

・「労働者が彼の生産物のなかで外化するということは、ただたんに彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実存在になるという意味ばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかも彼に相対する一つの自立的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的にそして疎遠に対立するという意味を持っている。」(88)→労働者は対象の奴隷となる(89)

 

◆労働の外化はどこにあるか

@精神性欠如としての外化:「労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃化する、ということにある。」(91)

A欲求充足の手段化としての外化:「労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段であるにすぎない。」→「外的な労働、人間がそのなかで自己を外化する労働は、自己犠牲の、自己を苦しめる労働である。」(92)

B従属としての外化:「労働において自分自身にでなく他人に従属するということに現れる。」

 

◆動物性と人間性:目的の抽象化という操作

・「食うこと、飲むこと、産むこと、などなどは、なるほど真に人間的な諸機能ではある。しかし、それらを人間的活動のその他の領域から引き離して、最後の、唯一の究極的目標にしてしまうような抽象がなされるところでは、それらは動物的である。」(93)

 

◆疎外論の構図

@労働者と労働生産物の関係:事物の疎外

A労働者と労働行為の関係:自己疎外

B類からの疎外(以下に説明する)

 

◆類的存在

・「人間は一つの類的存在(Gattungswesen)である。……人間は自己自身に対して、眼前にある生きている類に対するようにふるまうからであり、彼が自己に対して、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在に対するようにふるまうからである。」(93-94)

□「類」-「種」-「族」

 

◆非有機的身体としての自然

・「人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が@直接的な生活手段であるかぎりにおいて、また自然がA人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体とするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわちそれ自体が人間の肉体でないかぎりでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の[交流]過程のなかに留まらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。」(94)

 

◆類からの疎外

・「疎外された労働は人間から、B[-1]自然を疎外し、B[-2]自己自身を、人間に特有の機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から類を疎外する。すなわち、それは人間にとって類的生活を、個人生活の手段とならせるのである。……/なぜなら、人間にとって、労働、生命活動、生産的活動そのものが、たんに欲求を、肉体的生存を保持しようとする欲求を、満たすための手段としてのみ現れるからである。」

→「自由な意識的活動が、人間の類的活動である。」(95)

 

◆対象世界の加工としての類生活

・「対象的世界の実践的な産出、非有機的自然の加工は、人間がまさに類的存在であることの確証である。……動物は一面的に生産する。ところが人間は普遍的に生産する。動物はたんに直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけであるが、他方、人間そのものは肉体的欲求から自由に生産し、しかも肉体的欲求からの自由のなかではじめて真に生産する。」(96)

・「それゆえ人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的(werktätig)な類生活なのである。この自然を通じて自然は、人間の製作物および人間の現実性として現れる。それゆえ労働の対象は、人間の類生活の対象化である。というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自己を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自己を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己を直観するからである。」(97)

 

◆B類からの疎外のつづき

B[-3]:人間本質の疎外。人間の精神的な類的能力を彼の個人的生存の手段としてしまう。

B[-4]:人間からの人間の疎外。「人間が自分自身と対立する場合、他の人間が彼と対立しているのである。」(98)

 

◆私有財産と疎外の関係

・「私有財産は、外化された労働の、すなわち自然や自分自身に対する労働者の外的関係の、産物であり、成果であり、必然的帰結である。」(102)

・「労賃は疎外された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である。」(104)

・「外化された労働の物質的な、総括的な表現としての私有財産は、労働やその労働生産物や非労働者に対する労働者の関係と、労働者やその労働生産物に対する非労働者の関係という二つの関係を包含している。」(106)

 

◆人間の解放

・「私有財産に対する疎外された労働の関係から、さらに結果として生じてくるのは、私有財産などからの、隷属状態からの、社会の解放が、労働者の解放という政治的なかたちで表明されているということである。そこでは労働者の解放だけが問題になっているように見えるのであるが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間的な解放が含まれているからなのである。」(104)

 

◆疎外の出現する領域:生活手段、産物、活動、非人間的な力

・「疎外は、私の生活手段が他人のものであるということにも、私の欲求するものが私の手に入らない他人の占有物であるということにも、またあらゆる事物そのものがそれ自体とは別のものであるということにも、また私の活動が他人のものであるということにも、最後に、――そしてこれは資本家にも当てはまることだが――一般に非人間的な力が支配しているということにも、現れる。」(164)

 

 

 

 

第二草稿 1.私有財産の関係

 

◆労働者種族の存命的再生産

・「労働者は資本を生産し、資本は労働者を生産する。したがって労働者は自分自身を生産するのである。そして労働者としての、商品としての人間が、全運動の産物である。もはや労働者以上のなにものでもない人間、そして労働者としての人間にとって、彼の人間的な諸特性は、それらが彼に疎遠な資本のために現存するかぎりでのみ、現存するのである。」(107-08)「資本の現存は労働者の現存であり、彼の生活である。それは資本が労働者の生活内容を、労働者とは無関係な仕方で規定しているということなのだ。」(108)

・「国民経済学にとっては、労働者の諸欲求とは、労働者種族が〈死滅〉しないようにという範囲内で、労働者が期間中に自分を維持しようとする欲求であるにすぎない。したがって労賃は、他の一切の生産用具の維持、修繕、また資本一般の、利子を伴って再生産されるに必要な消耗、車輪を回転させるために使われる油などと、まったく同じ意味を持っている。」(109)

 

◆経済学は人間の現存を無視する

・「生産は人間を、精神的にも肉体的にも非人間化された存在として生産する。——労働者や資本家の不道徳、不具、奴隷主義——それの生産物は自己意識を持った、また自己活動的な商品である。……人間商品……。スミスやセイに対するリカード、ミルなどの大きな進歩、それは、人間の現存を——商品の大なり小なりの人間生産性を——どうでもよいもの、さらにまた有害なものとして説明していることだ。ある資本がどれだけ多くの労働者を扶養するかということではなく、それがどれだけ多くの利子をもたらすかということが、つまり年々の節約の総額が、生産の真の目的だというわけである。」(109)→「人間が、たんなる労働人間として、したがって毎日その充実した無から絶対的な無へ、彼の社会的な、それゆえにその現実的な非現存へと転落するかもしれないものとして、抽象的に実存すること」(110)

 

◆土地所有者と資本家の対立:不動産と動産の対立

・「土地所有者は彼の財産の貴族的世襲を、封建的な記念品や名残を、追憶の詩歌を、彼の夢想的な気質を、彼の政治的重要性などなどを主張する。そしてそれらが国民経済学的に語るとすると、農業ただそれだけが生産的である、ということになる。同時に彼は、その反対者[資本家など]をこう描き出す。すなわち狡猾な、金銭づくの、難癖をつけたがる、詐欺師のような、貪欲な、……反抗的な、人情も才智もない者、また、共同体からのけ者にされて勝手気ままにそれを売買する、高利をむさぼる、淫事をとりもつ、卑屈な、……ご機嫌とりの、ごまかしをやる、無趣味な、競争、したがってまた窮民や犯罪者など、すべての社会的紐帯の解体をもたらし育て増長させる、名誉もなく、主張もなく、詩情もなくなにもない金持ち無頼漢であると。」(113-14)

・「動産のほうは動産のほうで、工業や運動の奇跡を指示し、動産は近代の子であり、そしてそれの正当な嫡子チャクシであるとする。動産はその反対者を、道徳的な資質の本質についてまだ啓蒙されていない……低能だとして哀れむ。動産はその反対者を、方正、実直、普遍的利益、永続性という外観のもとに、運動不能、欲深い享楽欲、我欲、特殊利益、よこしまな意図を隠しているドン・キホーテとして描き出す。動産はその反対者を、ずるがしこい独占者だと公言する。」(114)

・「動産はこう主張する。すなわち、それは国民に政治的自由を得させ、市民社会の桎梏を断ち切り、諸々の世界を相互に結びつけ、博愛的な商業を、純粋な道徳を、好ましい教養を、作り出した。それは国民にその粗野な欲求の代わりに、文明化した欲求とその欲求を満たす手段を与えた。ところが他方、土地所有者——この怠惰な、ただ厄介だけの穀物暴利商人——は国民に一番必要な生活資料を騰貴させ、そのことによって資本家に、生産力を高めることもできないままに労賃を引き上げざるを得なくさせ……、近代文明になにひとつ貢献することなしに、しかも自分の封建的偏見を放棄することなしに、近代文明のすべての利益を高利貸しのように搾取する。」(115)

→「発展の現実的な進行から、……資本家すなわち完成せる私有財産の、未完成な中途半端の私有財産つまり土地所有に対する必然的な勝利がやってくる。」(116)

 

第三草稿 1.私有財産と労働

◆アダム・スミスに対する評価

・「私有財産の主体的本質、対自的(für sich)に存在する活動としての私有財産、主体としての、人格としての私有財産は、労働である。したがって労働をその原理として認識したアダム・スミス国民経済学が、……近代的産業の一産物であると見なされるべきである。」(119)

・「エンゲルスは、正当にもアダム・スミスを国民経済学上のルターと名づけた。ルターが宗教、信仰を外的世界の本質として認識し、したがってカトリック的異教に対立したのと同様に、また彼が宗教心を人間の内面的本質とすることによって、外面的な信心を止揚したのと同様に、また彼が聖職者を俗人の心胸のなかへと移し入れたゆえに俗人の外に存する聖職者を否定したのと同様に、私有財産が人間そのものと合体され、そして人間そのものが私有財産の本質と認められることによって、人間の外にあって人間から独立した……富は止揚される、すなわち、この富の外在的な没思想的な対象性は止揚されるのである。」(120)□「没思想的gedankenlos」:主体の運動によって媒介されていることがまだ自覚されていないという意味。訳注268.

 

第三草稿 2.私有財産と共産主義

◆共産主義の第一形態:粗野な共産主義

・「共産主義は止揚された私有財産の積極的表現であるが、さしあたりは普遍的な私有財産である。……その最初の形態においては、私有財産の普遍化と完成とであるにすぎず、そのようなものとして共産主義は、二重の形態で姿を現す。」(127)

@私有財産として万人に占有されないあらゆるもの(例えば才能)を暴力的なやり方で否定する。肉体的な直接的な占有が、生活や生存の唯一の目的である。労働者の仕事は万人に拡大される。労働の共同体。支払う給料の平等。

A結婚は、排他的な私有財産の一形態であるから、これにたいして、女性が共同体的な共通の財産となるような「女性共有」が対置される。「女性共有というこの思想こそ、まだまったく粗野で無思想なこの共産主義の告白された秘密だ、といえよう。」(127)「……私的所有者との排他的な結婚の関係から、共同社会との普遍的な売淫の関係へ……。この共産主義は、——人間の人格性をいたるところで否定するのだから——まさにこうした[人格性の]否定である私有財産の徹底した表現であるにすぎない。」(128)

 

◆共産主義の第二形態

[a]民主的にせよ専制的にせよ、まだ政治的な性質をもっている共産主義。(130)

[b]国家の止揚をともなうが、まだ不完全で、私有財産をもっている共産主義。

 

◆共産主義の第三形態

・「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義、それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義。……いままでの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然のあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決である。それは歴史の謎が解かれたものであり、自分をこの解決として自覚している。」(130-31)

□社会の理想を、問題=謎を解決するものとしてイメージすること。

・「それゆえ歴史の全運動は、共産主義を現実的に生み出す行為……であるとともに、共産主義の思考する意識にとっては、共産主義の生成を概念的に把握し意識する運動でもある。」(131)

・「私有財産の積極的止揚は、人間的生活の獲得として、あらゆる疎外の積極的止揚であり、したがって人間が宗教、家族、国家などからその人間的な、すなわち社会的な現存へと還帰することである。宗教的疎外それ自体は、ただ人間の内面の意識の領域でだけ生ずるが、しかし経済的疎外は現実的生活の疎外である、——だからその止揚は[意識と現実という]両側面を含んでいる。」(132)

・「社会は、人間と自然との完成された本質的統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である。」(133)

 

◆共同体論

・「『社会』をふたたび抽象物として個人に対立させて固定することは、なによりもまず避けるべきである。個人は社会的な存在である。だから彼の生命の発現は——たとえそれが共同体的な……形態で現れないとしても——社会的生命の発現であり、確認なのである。」「したがって人間は、たとえ彼がどれほど特殊な人間であるにせよ、……同じ程度にまた彼は思惟され感受された社会そのものの総体性、観念的総体性、主観的な現存であり、同様にまた現実においても、彼は社会的現存の直観や現実的享受として、ならびに人間的な生命の発現の総体として現存するのである。」(135)

 

◆人間的本質の対象化

・「たんに五感だけではなく、いわゆる精神的諸感覚、実践的諸感覚(意志、愛など)、一言で言えば、人間的感覚、諸感覚の人間性は、感覚の対象の現存によって、人間化された自然によって、はじめて生成する。五感の形成は、いままでの全世界史の一つの労作である。粗野な実際的な欲求にとらわれている感覚は、また偏狭な感覚しかもっていない。」「心配の多い窮乏した人間は、どんなにすばらしい演劇に対してもまったく感受性を持たない。……人間的本質の対象化は、理論的見地からいっても実践的見地からいっても、人間の感覚を人間的にするためにも、人間的および自然的な存在の富全体に適応する人間的感覚を創造するためにも、必要である。」(140)

 

◆問題の実践的性質

・「理論的な諸対立の解決でさえも、ただ実践的な仕方でのみ、人間の実践的なエネルギーによってのみ可能であり、だから、その解決は決してたんに認識の課題であるのではなく、現実的な、生活の課題であること、しかも哲学はそれをただ理論的な課題としてだけ捉えたからこそ、それを解決できなかったということも、明らかである。」(141)

 

◆問いのやめ方:捨象の問題

・「だれが最初の人間をまた一般に自然を生み出したのか。」→「私は君にこう答えられるだけだ。君の問いはそれ自身、抽象の産物だ、と。どのようにして君はあの問いをするにいたったのか、それを自問してみたまえ。……君が自然と人間との創造について[それぞれ]問う場合、君は[それぞれ]人間と自然とを捨象しているのだ。君はそれらを存在しないものとして措定しておきながら、しかもそれらを存在するものとして私が君に照明することを君は要求しているのだ・そこで私は君にこう言おう、君の捨象をやめたまえ、そうすれば、君はまた君の問いをもやめるだろう。」(146)

→社会主義的人間は、人間労働によって人間のための自然を産出するのであり、実践的、感性的、直観的には自然と人間の本質性がある。だから、自然と人間を超越するような本質についての問いは、実践的に不可能になった。(147)

 

◆共産主義における欠如の必要性

・「[私有財産の積極的に止揚された段階では]国民経済的な富と貧困とに代わって、豊かな人間と豊かな人間的欲求とが現れるということをわれわれは見いだす。ゆたかな人間は、……自分自身の実現ということが内的必然性として、必須のもの(Not)として彼のうちに存する人間である。人間の富だけでなく、欠乏もまた——社会主義を前提とするならば——人間的な、それゆえ社会的な意義をひとしく獲得する。欠乏は、人間にとって最大の富である他の人間を、欲求として感じさせる受動的な紐帯である。私のなかでの対象的存在の支配、私の本質的活動の感性的な発動は熱情であるが、それがここ[社会主義の前提のもと]では同時にまた私の本質の活動となるのである。」(144)

 

◆エネルギッシュな実践としての共産主義

・「社会主義としての社会主義は、もはや宗教の止揚によって媒介されない、積極的な人間の自己意識である。共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復との、次の歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理である。しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標——人間的な社会の形姿——ではない。」(148)

 

第三草稿 3.欲求、生産、分業

◆資本主義は疎遠な本質力を生み出す

・「[私有財産のもとでは]どの人間も、他人に新しい犠牲を強制するために、また他人を新しい従属におとしいれて彼を享楽の新しい様式へ、だからまた経済的破滅の新しい様式へと誘い込むために、他人に新しい欲求を呼び起こそうと投機する。どの人間も、他人に対して一つの疎遠な本質力を作りだそうとつとめ、そこに自分自身の利己的な欲求の満足を見出そうとする。」(149)

 

◆貨幣と欲求の関係

・「貨幣の力が増大するにつれて、人間の欠乏[必要度]は増大する。——それゆえ、貨幣に対する欲求は、国民経済によって生み出された真の欲求であり、また国民経済が生み出す唯一の欲求である。——貨幣の量がますます貨幣の唯一の力強い特性となる。貨幣は、すべての存在をその抽象にまで還元したが、それと同様に、自分自身の運動のなかでみずからを量的な存在へと還元する。際限のなさと節度のなさとが貨幣の真の尺度となる。……不自然で妄想的な欲望の奴隷、抜け目がなくてつねに打算的な奴隷……——私有財産は粗野な欲求を人間的な欲求にすることを知らない。」(149-50)

・「……この[人間性からの]疎外が自らを示すのは、一つの側面では諸々の欲求とそれらの手段の洗練化を、別の面では欲求の獣的な野蛮化、つまり欲求の完全な、粗野な、抽象的な単純化を生み出すことによってであり、あるいはむしろ、[欲求が]ただ自分自身を自分と反対の意味の中で再生させることによってである。」(151)

・「光、空気等々のもっとも単純な動物的な清潔さも、人間にとって欲求の一つであることをやめる。汚らしいもの、人間のこの頽廃、堕落、文明の下水溝の汚物……が、人間にとって生活基盤となる。完全な不自然な放任、腐敗した自然が、人間の生活基盤となる。……アイルランド人はただわずかに食べるという欲求だけしか知らず、しかも、ただわずかにジャガイモを食べるという欲求だけしか、その上さらに、じゃがいもの中でも最劣等種であるくずジャガイモを食べたいという欲求だけしか知らない。……——労働者がほっぽり出された子供に変わってしまっているのと同様に、ようやく成長しかけている人間、まったく未発達の人間——子供——を、労働者にするために機械の単純化、労働の単純化が利用される。機械は人間の弱さに順応して、弱い人間を機械にしようとするのである。」(152)

 

◆国民経済学に対する批判:節約の科学

・「国民経済学、すなわち富についてのこの科学は、同時に諦めの、窮乏の、節約の科学であり、そして実際にそれは、きれいな空気とか肉体的運動への欲求さえも、人間に節約させるところにまで達している。驚くべき産業[勤勉]の科学は、同時に禁欲の科学であり、そしてそれの真の理想は、禁欲的ではあるが、しかし暴利をむさぼる守銭奴であり、禁欲的ではあるが、しかし生産をする奴隷である。」(153)

→貯蓄にはげむ禁欲的な労働者を理想とする国民経済学。マルクスによれば、国民経済学は快楽的な外観にもかかわらず、真に道徳的な科学である。「自制、つまり生活とすべての人間的欲求との断念が、その主要な教義である。」(154)

・貨幣にはできる:「国民経済学者が君の生命から、君の人間性から奪い取るすべてのもの、それを彼は君のために貨幣と富とで補填してくれる。そして君にできないすべてのことを、君の貨幣はやることができる。」

 

◆国民経済学と道徳の関係

・「国民経済学の道徳は、営利、労働と節約、分別である。……道徳の国民経済学は、やましくない良心、徳、等々に富んでいることである。……道徳は一つの基準を、国民経済学は他の基準をというように、それぞれの領域が互いに異なった対立した基準を私に押しつけるということは、疎外の本質にもとづいている。」

□特殊領域の固定化と分離としての疎外。(157)

・「国民経済学と道徳との対立も、また一つの外観であるにすぎず、そしてそれは一つの対立であるとともに、またなんらの対立でもない。国民経済学は道徳法則をただ自分のやり方で表現しているにすぎないのだ。」(158)

 

◆疎外の止揚としての共産主義

・「疎外の止揚は、支配的な力をもっている疎外の形態からつねに生起する。すなわちドイツでは自己意識から、フランスでは政治がそうであるから平等から、イギリスでは現実的な、物質的な、ただ自分自身によってだけ自分を測定する実際的な欲求から生起する。」(160-61)「[疎外の止揚は]したがって、実行に移された共産主義を通じてのみ、貫徹されるべきである。私有財産の思想を止揚するためには、考えられた共産主義でまったく事足りる。現実的な私有財産を止揚するためには、現実的な共産主義的行動を欠くことができない。」(161)

 

◆現実にある社会主義の実践

・共産主義的な職工たち。社会主義的なフランスの労働者たち。

→「社会的結合、団結、また社会的結合を目的とする楽しい懇談が、彼らには十分ある。人間の兄弟のような愛は彼らにあって空文句ではなく、真実であり、そして人間性の気高さが労働によって頑丈になった人々のうちから、我々に向かって光を放っている。」(162)

 

◆国民経済学批判:個人、分業、交換

・「国民経済学者は――政治学がその人権についておこなうのと同様に――すべてのものを人間に、すなわち個人に還元し、そして個人を資本家あるいは労働者として固定するために、この個人からあらゆる規定性をはぎ取る。」(168)

・「分業は、疎外の内部での労働の社会性についての国民経済学的な表現である。」